ブックタイトル塩川伊一郎評伝
- ページ
- 98/332
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている98ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている98ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
塩川伊一郎評伝
六博覧会出品で宣伝、明治屋との提携で飛躍桃の缶詰やイチゴジャムは小諸の小山徳一三郎商店を通して販売されていった。缶詰工場開業当初にせっばつまって砂糖の借財分を缶詰で返済したことが、かえって販売の手間をはぶくことができるというよい結果となった。江戸時代から明治にかけての小諸は、商業の上では大きな位置を占め、大きな問屋があって、関東地方から、北信や新潟にかけて広い商圏をもって商売をしていた。小山徳三郎商店もその一つであったので、缶詰は東京をはじめ、日本各地へと広く販売されていった。しかし、桃の缶詰やイチゴジャムの製造が増加するにつれて、販売の確実性を増すために、品物の品質の良さを宣伝する必要があった。いまなら、テレビのコマーシャルや新聞への折りこみをするという方法が考えられるが、明治の世の中では新聞が中心であり、『信濃毎日新聞』(長野市) と『信濃佐久新聞』(岩村田) へたびたび広告を出しては、缶詰を世に出そうとした。明治三十四年十一月には、はじめての年にできた糖煮缶詰を閑院宮殿下に献納し、それから毎年送り続けた。これは当時の最も上流階級であった皇族に試食してもらい、味についての「おすみつき」をい