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概要

塩川伊一郎評伝

ところが、明治三十六年頃から、桃に縮葉病が発生した。はじめのうちは人の手でその葉を摘みとっていたが、病害はさらにはげしくなった。人手を増やして摘んでも取り切れるものではなかった。三十八年頃からは二斗式ボルドー液を研究し、催芽期から落花期までに一三回散布することによってどうやら防除に成功した。明治四十二年ごろには炭疽病と心喰虫の被害が広がった。防除に手を尽したが効果が少なく、生産量がへってしまった。特に炭疽病は四十四年に激しく発生し、小諸・三岡地区は八割の被害、南大井・岩村田・小沼は七割、御代田で六割、大里でも三割と北佐久郡仝体を通じて約七割の大きな被害となり、二万四千四〇〇円にのぼる損害となってしまった。(『信濃毎日新聞』、明治四四・七・一記事)伊一郎自身も五反田にあった大きな桃畑で、虫のつかない果実は一つもないといった被害を受けた。長野県庁では、この事態を重視し、当時の果樹病害虫防除の権威者であった西ヶ原農事試験場の堀正太郎技師を招いて詳細な調査を行なった。その結果、ボルドl液の調整を誤らないこと、被害果・被害枝の完仝処理、樹勢の健全化などについて指導を受けた。特にチッソ肥料の使い過ぎを避け、施肥成分の均衡をはかること、見込みのない枝は伐採して焼きすてることなど、具体的な教えを受けた。こうした努力にもかかわらず、病害の勢いは少しも衰えず、翌四十五年にも多発したため、北佐久郡役所、県農事試験場の協力を得て防除をすすめる一方、炭疽病にかかった枝を西ヶ原農事試験場に送るなどして対策をたてた。しかし官民あげての努力も空しく、品質・生産量とも年々低下し、収益も減少することになった。