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概要

塩川伊一郎評伝

五桃栽培の広がりと共同の力桃の缶詰製造が軌道にのり、桃栽培農家の収入が安定しはじめると、それまで様子をみていた農家も桃づくりに意欲を持ちはじめた。特に「アーリ― リバ― 」系の種類は、樹の勢いが強く、一株で二〇貫匁以上の実をつけた。伊一郎はこれを「浅間水蜜桃」と名づけた。これによって佐久のやせた火山灰の土地でも多くの収量が上がることが認められたので、苗の生産を増やし、その代金は桃の生産によって払うというような方法をとって普及につとめた。組合をつくって助け合うこともすすめた。この結果、小諸町に信桃社、小沼村に束洋社、南大井の甘桃社・栽桃社、そのほか大里桃園をはじめ岩村田・北大井にも桃園ができた。個人としても桃を栽培しようという人も出てきた。伊一郎自身の桃園も六町歩に広げた。五反田方面は一面の広い桃畑に変った。明治四十年には南大井村の一八町歩・三岡村一二町歩、小諸町一〇町歩をはじめ、北佐久郡各町村で合計七○ 町歩余に達した。