ブックタイトル塩川伊一郎評伝
- ページ
- 82/332
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている82ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている82ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
塩川伊一郎評伝
とって、荘助が鉄製機械の製作にあたっては、単なる業者としての関係以上の親しい間柄にあったことは、のちに出てくる荘助の二代目伊一郎に対する弔辞から伺うことができる。明治三十四年と一三十五年の木村熊二日記にも荘助の名前がみられることから、缶詰製造のために機械づくりや技術の中心的存在であった伊一郎父子との交際が深かったことがわかる。桃の缶詰製造の費用の中で大きな位置を占めているのが砂糖の代金であった。支出の内訳をみると最も多いのは缶代であったが、二番目に多いのが砂糖代で、桃の代金よりもはるかに多くなっている。新しく独立した時の砂糖をめぐるエピソードはここから生まれてきたのである。缶詰はのちに材料のブリキを買ってきて、自分の工場でつくるようになり、費用の節約をはかったが、外国からの輸入による砂糖の値段は缶詰製造にとって最後までつきまとうことになる。道具の発明と能率の向上桃の缶詰製造はいくつかの問題点をかかえていた。その第一は桃の皮をむいたり、核をぬくのに人手がかかり、桃が熟す時期になると近所の婦人たちを頼んでも間に合わないくらい忙しかった。桃を積んだまま日がたつと、腐敗して農家に損害を与えてしまうことになる。たくさんの人を頼むと人件費が多くなって、経営を圧迫することになった。伊一郎は工夫に工夫を重ねて金属性の〓皮器と核抜器を発明し、明治三十八年に専売特許をとった。それまで庖丁で皮を勦いでいた時は一人一日に六貫目に過ぎなかったものが、この〓皮器を使うと、一