ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
ゼリー三千本余であった。明治一三十五年十二月二十日、桃養合資会社の資本金は三千五○ ○ 円に増額された。出資者は、塩川貞五郎、大久保茂惣吉が一〇○ 円、豊田守五郎、塩川民助(東京)が二○ ○ 円、中村廣太郎、塩川伊一郎、高山永一三郎(小沼)、大塚宗次(小諸)、小山忠左衛門(小諸) が一五〇円のほか、小県や岩村田などから一三七名にのぼっている。塩川貞五郎、大久保茂惣吉が無限責任社員となって他の三五名は有限責任社員であった。(資料編十桃養合資会社定款参照)ここに生果生産過剰の桃を缶詰にして売る方法がみごとに成功した。北佐久の各町村に広がっていった桃栽培は、農家の副業として収入を増し、佐久洋桃の名声は日に日に高まり、順調に発達した。折しも日本は、ロシアとの関係がけわしくなり、日露戦争に突入していった。国内では諸物資の値が上がり、缶詰の材料が高騰して小さな会社の経営は苦しくなった。そこでさらに資本金を一万円に増額して日本桃養株式会社に変更する議案が出され、明治一三十九年八月二十八日に決定された。これより前の明治三十七年、伊一郎父子をはじめ、直井圓次郎、小山勝治、出澤嘉一、小山一三四郎、塩川源助、矢嶋元助、永井與三郎の九人は会社を脱退し、新しく塩川缶詰合名会社を設立することになった。伊一郎と有志達が桃栽培をはじめたそもそもの動機は、「貧しい農家の生活を少しでも楽にしよう」ということにあった。こうした理念をより実現するために、塩川缶詰合名会社は出発した。いずれにしろ、その後日本桃養株式会社と塩川缶詰合名会社は、ともに北佐久一○ か町村の経済力を高めヽ長く佐久地方の経済をリ― ドする有力企業として、地域発展に貢献していくことになる。後に昭和初期の