ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
二缶詰製造への進展のかげに新しい桃づくりに取り組んで五年、苗を育て山野を切りひらき、仲間をさそって植えた桃畑は約二〇町歩にも広がった。桃の樹の成長とともに収穫量は年々増えていった。生食用の販売だけでは売れ残ってしまうことが目に見えてきた。生桃の腐敗を防ぐためには、熊二も同志たちも缶詰にすることが良いという結論に達した。しかし、缶詰の製造が桃の木を育てるように、簡単にいかないことはわかっていた。この窮状をみた木村熊二は、東京の洋酒缶詰組合長であった豊田吉一三郎に桃缶詰製造の助力を依頼してくれた。缶詰会社をつくるに当たっては、何より資本を集めることが必要であった。この呼びかけには森山ばかりでなく、小諸や佐久地方まで広く資本が集められた。明治三十四年七月二十一三日、塩川貞五郎・伊一郎の二人は木村を訪ね、缶詰会社について助言を求めた。木村は、豊田吉一三郎を通して、東京小石川指ヶ谷町の豊田缶詰製造主、豊田守五郎を顧問とし、子息ら二名を派遣して製造の指導に当たらせることにした。ここに八月十一日、合資組織の日本桃養合資会社が設立され、木村も出席して開業式が行われた。初年度の生産は桃缶詰一万三千本、ジャムおよび