ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
ところが、前に真綿を貸しつけた家へ行ってみると、その家はどこへ引っ越してしまったのか、行方がわからない。あたたかな大島のことなので家は小さく、木と植物の葉でつくられた小舎のような家なので、寒さのきびしい信州とはちがって、簡単に移転することができる。また、ある家では、この前住んでいた人とちがった人になっていて、話がまったく通じないといった状態であった。貸しつけた真綿の代金を回収するどころか、はるばる遠くまで運んできた二回の真綿は、大島紬にならないばかりか、真綿代まで回収できないという大失敗に終ってしまった。しかし、大島での一三三日間の中で、彼は西郷南洲の夫人(西郷菊次郎の生母) と親しくなり、話を聞く機会に恵まれることになった。夫人は彼が遠隔の地信州から大きな希望をもって渡ってきたことに共感し、紬の織り出しの模様をくわしく教えてくれた。夫人の教えに元気づけられた勝太は、紬の製造を信州で行なう決心をかためて、大島を去った。帰途に彼は薩摩に立ち寄り、女子授産学校と士族授業学校を訪れ、一一人の女教師を雇い入れることを約束し、手合金をおいて鹿児島をはなれた。(信濃毎日新聞記事)無事故郷に着いた勝太から計画を聞いた父伊一郎は、賛成しなかった。一三回にわたる莫大な資金は無駄使いに近く、新しく機器を買ってもむずかしい模様出しをする技術者がすぐ育つとは考えられなかったからである。勝太は、自ら払った手合金を流し、紬織り出しの計画を思い止まり、りんご園につづいて、またまた失敗に終った。若い彼の心のうちは「煩悶苦慮」と自ら他の文に書いているごとく、家にいてもどうし