ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

塩川伊一郎評伝

を出すことが最大のもてなしであった。それほどに貧しい農村経済なのであった。「夕帰宅微恙あり」と日記の最後にあるところから、熊二も演説に疲れ、伊一郎たちの興奮に少し熱があったのではないかと推察される。八人は直ちに桃園づくりにとりかかった。時の村長中村廣太郎の山林約四千坪を借りると、松やクヌギなどの立木を切って、開墾に立ち向かった。勝太ともう一人が熊二から借りたお金を持って、埼玉県安行と東京の育種場へ出張し、水蜜桃の苗木の買入れを行なうことになった。当時の森山(小海線三岡駅の南部一帯) のまわりには平地林がたくさん残っており、村の人々の建築材や炊事のための薪炭をとる場所となっていた。畑を増やすには木を切り、根を掘り起こす苦しい仕事であったが、同志たちは力を合わせて立ち向かった。木の根を掘り起こした土地は、表面は木の葉などによる腐食した土であったが、それはうすく、その下には人間の住みつく以前から長い間浅間山が吹き出した火山灰土の層が堆積していた。若者たちは資金不足を、労力をもって補いながら桃栽培に向かってスタ― トしたのである。一方、桃苗の買いつけに出発した勝太は、埼玉県北足立郡土塚村の苗木商中田与右衛門方から、「早生半兵衛」、「天津水蜜桃」、「上海水蜜桃」、「日の丸」などの苗木七五○ 本を購入して帰った。木村熊二の一○ 円を基に七人が少しつつ出し合ったお金を加えて手に入れた、貴重な桃苗であった。七人は開墾したばかりの畑に桃を植え、あいている所へは、じゃが芋と百合を栽培した。「桃・栗三年、柿八年」と古くからの言い伝えにあるが、桃の実がつくまでの三年は、間作の収入で補おうという熊二