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概要

塩川伊一郎評伝

小諸義塾を開いた木村熊二木村熊二の心が小諸へと向いたことは想像に難くない。明治二十六年四月には小諸の耳取町に家を借りることを申し入れており、小諸定住の心が決ったとみられる。熊二は前山から歩いて小諸の小山・佐藤両氏を訪ねていることもあるので、森山附近の村々や農地の様子を観察していたにちカしなし明治二十六年(一八九三) 十一月二十五曰ヽ小諸義塾が小諸懐占園近くの耳取町柳沢呈三の家を使って開校した。二一人の青年たちが、木村熊二の指導のもと自学白習をはじめた。ちょうどこの時が、勝太がりんごづくりに失敗して失意のどん底にいたころであった。アメリカ留学二二年の木村熊二が小諸へ見えたことは、当時としては画期的なニュースであったから、伊一郎父子の耳に入らないはずがなかった。その頃、熊二もりんごづくりには大変な興味をもって試行錯誤を繰り返していたことが日記から伺える。こうしたことから、意気消沈していた伊一郎父r を木村熊二に引き合わせたのが、自由民権家として活躍していた.石塚重平の妻シンf であった。シンr はクリスチャンで、熊二の信奉者であった。石塚重平はヽ小諸に盤鴻社を結成し、自由民権思想の普及に努めた自由党員であった。明治十八年二八八五) 朝鮮事件に連座、大阪で入獄した。後に衆議院議員として国政で活躍する。石塚は早川権弥と同志であり、木村熊二の信奉者であった。りんご園づくりに失敗した伊一郎は教えを乞うべく、木村熊