ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
すべて使い果し、勝太は開墾に使った鍬一挺を持って家に帰らなければならなかった。果樹の失敗は、りんごばかりではなかった。伊一郎父子は、明治二十二年から、桃の栽培もはじめている。「支那種又ハ在来種ヲ栽培シタルモ皆結果不良ニシテ一モ成績ノ見ルペキモノナクシテ終レリ。是レ其方法宜シキヲ得ザルト種類ノ雑駁ナルニ起因セリ」と後の経営書に書いているように、消毒や肥料についての知識がない上での栽培では成功することは無理であった。五年間の苦労と二千円の資金は水の泡のように消え、村人たちからは「それみたことか」と笑われる結果となった。さすがの伊一郎父子は果樹園への夢を失ったばかりでなく、生活や仕事にも困窮をきたすまでになっていった。伊一郎父子が失意のどん底であえいでいたその時、一人のキリスト教の伝道師が小諸にやってきた。その人物こそ、のちに伊一郎父子を支援した木村熊二その人であった。