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概要

塩川伊一郎評伝

げることを考えた。新しいりんご園をつくるにはヽまず林を開墾することからはじめなければならない。勝太は何人かの友人にりんご栽培の有益なことを説いて応援を求めたが、海のものとも山のものともわからないりんご園の造成に賛成する者はなかった。勝太は、新しい国の産業を起こし、農村の窮状を救いたいと語りかけたが、村の青年たちは同意するどころか彼をさけるようにもなり、遂には激論となり衝突をしてしまった。のちの文章に「旧思想を墨守せる青年輩」と書いてあることから、村の青年たちは明治のはじめころの米と雑穀を中心とした農業をかたく守っていこうとする態度がみられ、貧しいけれども金をかけてまで新しい果樹栽培に立ち向かおうとする者はいなかったようである。伊一郎父子のりんごづくりに土地を貸してくれる人もなければ、開墾や畑づくりに手をかしてくれる友もいないばかりか、村人たちから相手にもされない状態になってしまった。父伊一郎は自分の信ずる道を成就させること、また若い勝太の希望をかなえさせてやろうと八方手をつくした。まずりんご苗と広い畑がいる。そのためにはりんご園をつくり上げるまでの資金が必要である。苗は前の年に植えてのびた枝と野山からの台木をつぎ木して増やしていった。資金は棟梁の仕事の方からつみ立てていった。ところがいちばんだいじな畑を借りることができなかった。畑は丸子町鹿教湯の奥にあたる三才山のふもとにみつかった。西内村(現丸子町) の斎藤村長のあっせんによって一〇町歩ほど借りることができた。今では三才山トンネルができて国道二五四号が開通したのでそんなに遠い土地ではないが、明治二十年代に小諸から鹿教湯へ行くには、北国街道を通って大