ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
催地の遠近と経費の多少とを問わず出品し、極力発展策を講じ、栽製共に奨励普及に余念なかりし結果と共に好況となり、佐久洋桃の声價は日に月に旺盛となり、順境の発達を遂ぐるに至れるも、一面に於ては世運の難展も又著しく、従って諸物資の騰貴に伴ひ製造に要する諸材料の昂騰と其の他の生産費の膨脹とは、到底小規模なる団体の力を以て能く経営し能はざるは自然の趨勢なるに至り、更に資本の増額を為すに方り壱万円の株式会社と組織を変更するの議起りしは、明治三十九年中の事なり。而して愈々株式組織に変更したるは同年八月二十八日なるが、其際故ありて同時に脱退したるは塩川伊一郎、直井圓次郎、小山勝治、出澤嘉一、小山三四郎、塩川源助、矢嶋元助、永井舉三郎の諸氏なるが、塩川伊一郎氏は別に個人として缶詰工場を創設し、会社と同等の勢力を以て栽培に製造に益々斯業の隆盛を企図したる事、其当時有名なるものなりし四斯の如くして株式組織に変更した日本桃養会社は、塩川貞五郎氏主脳者となり、極力社業の発展策に腐心し、一方塩川伊一郎氏は製造工場を会社と異にせるも、斯業の奨励普及は旧に倍し、村の為め郡の為め将又国家の為め努力したり。然るに何ぞ此好個の事業家をして不幸病魔の犯する處となり、明治三十九年遂に黄泉の客となり去る。当時、斯業に及ぼしたる影響甚だ大なりしなり。然れとも襲名したる嗣子伊一郎氏又却々の事業家にして、今や斯業に関しては拡く全国の事業として知らるるに至れり。又塩川貞五郎氏は老後尚晩近迄社業に尽くしたるも是又今や其の温容に接する不能、されど嗣子民助氏は非常の熱心家にして會て本県農