ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
て小諸町の信桃社、小沼村東洋社、南大井村甘桃社及栽桃社、大里村に於ける大里桃園、其の他岩村田、北大井等に各組合の設立を見、且つ個人仕立の桃園続出するに至りたり。而して、創業当初は其目的専ら生果の販売にありし県下市街地に供給して末だ洋桃本来なる風味の嗜好を知るもの少なく、軽井沢の外客をして唯一の顧客とせしも、之又需用に限りありて到底地方に於て處分し能はざるに至りたれば、進んで京濱地方に販路を開きたるも多くは姦商等に斯かれ、多大の損失を蒙りたるが如き状況にして殊に一面に於ては生果の産額にはかに激増し、いわゆる生産過剰となり、益々販路に窮するに至りたるを以て、先輩同志相謀る處あり、生果利用の方法として、缶詰の製造を企画せるは、明治三十四年中の事に属し、同年十月十日塩川貞五郎、遠藤市助、豊田吉三郎、大久保茂惣吉、塩川伊一郎、小原多作、森山嘉市、塩川三郎等の諸氏の発起に依りて、当時小規模ながら、合資組織の日本桃養会社を創設したり。読者諸君、我が三岡村に洋桃の試植を為せしは、前回に述べたる如く明治二十九年にして、此の間即ち僅か満五年しかもかくの如き発展を来したるは何故ぞ、こは申す迄もなく先輩者は農家副業の為め、自己の利害を顧みるの暇なく奨励の結果、異状の発達を来したるにあり、今其の壮挙に加わり直接間接斯業に功労ありし社員を挙ぐれば附近数か町村に亘り左の如し中村廣太郎、塩川民助、塩川幸太、高山永三郎、大塚宗次、小山忠右衛門、高山和一郎、塩川一郎、直井圓次郎、塩川賢三、小山勝治、出沢嘉一、中村道之助、小山三四郎、塩川源助、安川濱之助、矢嶋市助、小山立三、矢嶋元助、永井興三郎、塩川松太郎、豊田守五郎