ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
十二佐久特産物の消長(『信濃佐久新聞』大正八年八月一日より)北佐久の洋桃と苺中島禾堂北佐久郡に於ける洋桃と苺は、我長野県下は勿論本邦各府県を通じて有名なる特産物なるは、世人の斉しく認めらるゝ處にして、我等が茲に事新しく記述するの要なきも、之等事業の創設者は、如何にして斯業の今日あるを致したる功労の一班を公にして併せて事業の発展せる径路を紹介せんとするにあり。今その起源の概況を報道すれば同郡三岡村及附近の各村は、地味慨して瘠薄にして普通農業の収益の如き反当り僅々拾余円に過ぎざる耕地多きは往時に於ける通例なりとす。然るに明治初年来の世運の進展は、農業組織の改善を促して尚進まず租税公課は無遠慮に向上する等農家経済の不況思はざるの甚しきものあるに至り、如何にせば此の瘠地を利用し多額の産出を收さしめ農民の困難を救済すべきやは当時官民共に日常苦慮焦心したる時代なりき。而して当時比較的有利ならんとして第一に注意を惹起せしめたるは園芸事業にして普通農業の集約的耕種法に依るよりも薄地に適当の作物を撰みて栽培し而も収穫物は他地方に売却し利益を自村に持帰る等の事業は不知不識の間に農村の経済を潤沢ならしむる唯一の方策なればなり。