ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
然れ共、販路は一の問題を来せり。軽井沢避暑外人のみを估客として、無限の生果を売盡す可からず。之を地方に販売せんか、生活の程度低き田舎に於て西洋新果の需要多かるべき筈なし、況んや熟期の長からざるものたるに於てをや、一難排し去られて一難又来る。或る年の如きは空しく地上に落下せしむるの災を蒙り志こともありき。茲に於て明治二十九年の夏、洋桃の密柑箱入数個を携へ、販路拡張の爲め上京し、上野にて一箱一円五十銭にて販売し得たるを以て歓喜措く能はず、木村翁に発電したるは今猶話柄とする処なり、是より後、京濱問屋に輸送するに及びたるも、問屋商の狡獪なる、常に腐敗の口実の下に多大の損害を蒙らしめり。かくの如くして継続数年、漸く一個の国産物として誠実の取引を見るに至れり。之れ実に洋桃界の一大発展なり。余之に力を得て、外へ東奔西走洋桃の栽培を勧誘し、内に良種の繁殖に務めしが、気運転じて余が説を容るもの次第に続出し、小諸には信桃社・酢屋桃園、小沼の桃洋社南大井の甘桃社、岩村田には長土呂区の桃園、大里村の有実社、御代田桃園等を見るに至れり。其の他、個人に至りても大は数千本、少なるも猶二・三百本を移植するに至れり。其の発達の迅速驚くべきに非ずや。而して苗木は弊園撰出の良種を移植し、余の管督の下に皆良成績を収むるに至れり。斯くの如く其の栽培の盛となれるに伴ひ、生果の供給無限、殊に収穫期に限りあるものなるを以て、大輸出も腐敗に次ぐに腐敗を以てし、其の処分に窮するの有様を呈しぬ。余や元果実栽培を以て国産を興し、猶進んでは海外輸出をも図らんとする者、坐して斯る窮状を見るに忍びん。木村先生の紹介状により、明治三十三年、豊田氏を東京に訪問する事三回、有志と共に募財に従事志、遂に桃養社を興し、共に製造に従ふ事三年なり。然れ共会社は当時遠大の抱負無く、徒らに原料の價格