ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
考ニ供ス。若シ夫レ斯業界ノ為メニ寸毫稗益スル所アルヲ得バ此レ父子ノ本懐ナリ。冀クハ大方ノ諸賢父子多年ノ素志ヲ諒トシ、指導是正ニ吝ナラザランコトヲ、蕪辞ヲ巻頭ニ掲ゲテ緒言トナス。明治四十二年二月塩川伊一郎第一編沿革噴火山浅間山麓ノ地味甚ダ磽磅ニシテ、一反歩ノ收穫僅拾円内外ニ過ギズ。農民貧困ニ苦ム。如何ニセバ此瘠地ニ多額ノ産出ヲナサシメ、以テ農民ノ貧困ヲ救済スベキカトハ日常苦慮焦心スル所ナリ。有利ノ事業トシテ第一ニ注意ヲ引起サシメタルモノハ苹果ノ栽培ナリ。明治十八年東京芝区三田育種場ヨリ数種ノ苹果苗ヲ取リ寄セ、之ヲ繁殖シ果樹園ヲ仕立テ当郡三岡村ニ五反歩ヲ栽培セリ。次ニ小県郡西内村ニ拾町歩ノ原野ヲ開墾シテ之ニ苹果苗ヲ栽培シテ心血ヲ注ギ栽培シタルモ、資質気候ノ宜シキヲ得ザルガ爲メ遂ニ失敗ニ帰シ明治二十六年全部ノ苹果園ヲ廃スルニ至レリ明年二十二年ヨリ支那種又ハ在來種ノ各桃樹ヲ栽培シタルモ皆結果不良ニシテ一モ成績ノ見ルベキモノナクシテ終レリ。是レ其方法宜シキヲ得ザルト種類ノ雑駁ナルニ起因セリ。偶モ当時小諸義塾ヲ開キテ幾多ノ人才ヲ養成セラレシ木村米国理学博士ノ久シク米国ニアリテ同国果樹