ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
として進み、今や北佐久地方の農家にして、数株或は十数株を植ゑざる者なく、最近の調査に拠れば、同郡内の桃園は二百町歩の広きに亘り、而して是が種苗は、悉く氏の苗圃より給したるものにして、氏は郷党に唯一無二の副業を与ふると共に、彼の焼石原は黄金の宝野と変じ、我邦園芸王の月桂冠は氏の領する所となれり。▲声価世に高し洋桃の缶詰氏の選択に係る四種の洋桃は、顆粒豊大にして香気馥郁、成長迅速にして収量多額、能く磽〓不毛の地に稔りて、氏が多年の愁雲漸く霽れ、赫燿たる光明は彼れの前程を照さんとするの時、氏は更に紅果の販路に付て一の難関に逢着せり、而も之を突破して凱歌を奏し得るに非ずんば、九仭の功を一簣に欠く是が画策は栽培事業に伴ふ喫緊事たるに於て、氏は幾多の盤根錯節を苅除し、遂に能く最終の勝利を博し得たり、希くは東信の特産物たる養桃缶詰の歴史に聞け。氏が洋桃の試作的時代に於る華客は、主として軽井沢に避暑せる外人なりき、然るに年を遂ふて生産益益加はり、限ある外客の需要のみを以てしては、供給の過剰なるを如何せん、去つて付近の町村に販路を求めんか、一顆三四銭に値する桃果は、彼等農民の口にすべく余りに不廉なるを奈何せん、氏は苦めり、氏は憤れり、不撓不屈の精神、企業商略の機智は茲に発揮せられ、明治三十年初めて東京に生果を輸出するに至りたるが、京浜商人の没徳義なる名を果実の腐蝕に藉りて〓次彼を苦む、之加、氏が洋桃