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概要

塩川伊一郎評伝

乎豈に啻に一郷一家の幸のみと謂はんや。氏の先考は元と接木の術に長じ、園芸的趣味を会得する事頗る深かりしかば、愛児の携へ帰れる『果樹栽培便覧』を繙くや、忽ち案を打つて叫んで曰く、是なる哉是なる哉、萃果の栽培以て我が焼石原を拓くべしと、諄々として其見る所を説く、氏大に之を賛し、乃ち東京三田育種場より苗木を購ひ、之が繁殖に思を労して、漸く五反歩の園圃に約三百本の果樹を栽植し得たり。然るに当時氏は地方青年の積弊を改善せんとして、端なくも彼等と意見の衝突を来し遂に絶交の宣告を与へられぬ。茲に於て厳父は氏に一千円の資本を与へ、郷を去つて小縣郡三才嶺の麓に至り、林檎栽培の事に従はしむ。昨は孤燈の下に読書を親み、今は来耜を執つて開墾に努む、氏の新生涯は茲に其幕を開き、明治二十二年、氏は時の西内村長斎藤氏の斡旋に依り、大に事業上の便宜を受けて、三才山麓十町歩の原野を開墾し、果樹を植うること実に四千本の多きに及ぶ、年少気鋭の園主、五人の雇人と共に園中の茅屋に起臥して、夙夜其業に励み、樹木漸くにして林を成せり然れど年々歳々花徒らに咲きて、実を結ぶもの極めて罕に、氏の予想せる利益は全く長夜の夢と化し、加之第七年目に至り、四千本の林檎は害虫の為に枯死し、或は野火の為に焼燼し、数年の労力と資本とは水の泡と消え、氏は失敗の記念たる一挺の鍬を擔ふて家に帰れば、憐む可し三岡村に於ける栽培事業も亦同様の運命に陥るを見たり、氏が農界に於る第一歩は斯の如くにして蹉跌し、唯郷党の嘲罵を贏ち得たるに過ぎざりき、知らず彼は如何にして此悲運を挽回せんとはする。