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概要

塩川伊一郎評伝

あり、飽まで園芸家として世に立ち、浅間山麓の痩土をして立派なる桃畑と化せしめんと決心したり。恰も好し、父の洋桃栽培事業は次第に発展し来りて、前途益々有望となれる時なりしかば、父を助けて専ら洋桃の栽培に従ひ且盛んに苗木を作りて、無代希望者に貸與し其の植栽を奨励したり。是に於て洋桃の植栽大に行はれ、氏の居村三岡を中心として北大井・南大井等には立派なる桃園を見るに至り、遂に北佐久全部に行はるゝことゝはなれり。乃ち最近の調査に依るに北佐久全部の桃園二百町歩、内六町歩は氏の所有に係れり。尚一面に於ては明治三十三年頃よりイチゴの栽培を始めたるに、是亦次第に隆盛の域に進みて今日にては其の栽培区域六町歩に上れるが皆是水田を潰してイチゴ畑と為したるものなり。洋桃及びイチゴの栽培に於て成功し、来年の見込み額は生にして売却するものを除き洋桃缶詰二十万本、イチゴ缶詰十万本なりと言へり、されど斯の如くに成功するまでには尚幾多の苦心を費したるものなり、何ぞや生桃の失敗、缶詰の工夫皮〓器及び核抜器の発明是なり。而して此工夫発明の間頗る面白き談あり丹精を込めて栽培したる幾多の桃の木は、美事なる実を結ぶに至れり、軽井沢に在る外人を当てにして売り出したる處、一つ二銭乃至三銭となれり。林檎にて金を失したる氏の父及び氏は、桃にて始めて銭の顔を見るに至れるなり。其の喜や知る可し、されど桃の結る数の沢山なるに従ふて軽井沢のみにては之を売り盡くすこと能はざることとなり、何處に向って販路を拡めん乎との点に就て苦心せる結果、(五)