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概要

塩川伊一郎評伝

なる嶋人は、次ぎに至る頃には何れかにか転居して、其の多くは代変わりとなり居れる実況にて、貸附けたる真綿の代金を回収すること能はず、遙々真綿を持ち行きしこと二回なるも、総て失敗に帰したり。されど大島に於て西郷南州の妾即ち西郷菊次郎氏の生母にも親しく面会し談話を交へし由にて、其の間紬織出しの模様は能く調査を遂ぐるを得たるを以て、いよく之を県下に行はんとの意志を堅め、最後に大島よりの帰途薩摩に立寄りて女子授産学校及び士族授業学校と特約し、二人の女教師を雇ひ入るゝこと・して手合金を置き帰国したるが、帰国後父の反対を破りたるため、我から手合金を流して紬織出しの計画を思い止まり、是亦失敗に終れり、嗟失敗に失敗を重ねし氏は如何にして園芸王とはなりし乎稿を改めて之を記すを待て外、雄志を伸ぶるに由なく、内、郷党に容れられず、快々として煩悶苦慮の人となりたる氏が、端なく思ひ起したるは、鹿教湯の開墾に着手当時、石塚シン子より與へられたる訓誨の辞なりき。石塚シン子の與へたる訓誨の辞を意訳すれば、「不毛の地に対して能く一木一草を生ぜしむるものあらば、そは政治家の事業に優ること万々なり」と言ふものなりしなり。石塚シン子は、故衆議院議員にして全委員長たりし石塚重平氏の令閨なり。熱心なる基督教徒にして地方の婦人界に其の名を知られたる女丈夫、当時重平氏は大阪事件に関して入獄中なりしことゝて、氏に與へたる此の訓誨の辞は人生處世の上に付て大に悟る所ありしがためなるやも知れず。閑話休題氏は此辞を思ひ起すと同時に、翻然として悟る所(四)