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概要

塩川伊一郎評伝

せり。然も先に林檎に於て苦き経験を嘗めたるより、直ちに転業せず、小諸義塾の木村熊二氏は米国理学博士にして、かつて米国に在りたることあるを思ひ起し、木村氏の意見を聞きてのち決すること・して木村氏に問ふに、洋桃の栽培如何を以てせり、而して木村氏より米国に於ける桃の栽培の実況を聞きて、始めて洋桃栽培に転ぜりと言へり。当時氏は家に在りても面白からざるより、何か一仕事仕出来して自己の失敗丈にても取り返さんとし、好き事業もがなと求めつゝありし處、時恰も日清戦争後にあたりて、台湾に於ける開拓事業は最も有望なりと伝へられたるより、新希望をもたらして、台湾視察の途に上りたるは、明治二十九年なりき。されど台湾に到着後遙々もたらしたる新希望も忽ちにして放擲せざるを得ざるに至れり。他なし、聞くと見るとは大相違にて生蕃の居る所はいざ知らず、安全に事業に従ひ得る所は、僅の土地と雖も己に業に開拓せられ、山の頂上にも茶の木を見ると言ふ有様にして、新に開墾の鍬を下すべき餘地なきを知れたればなり。是に於て空しく帰国することゝはなりたるが、帰りがけの土産として何物をか得んとして琉球に立寄り、大島諸島を廻り薩摩を経たる間に於て一の事業を発見せり。有名なる大島紬は真綿を原料として造らるゝもの、僅か百目か百二十目の真綿にて最高十円の紬を得らるゝことを目撃したるもの是なり。真綿は信州の名産、原料として豊富なる点より見て、紬織出しを絶好の副業なりと考えたる氏は、之を県下に於て行はんと欲せるも、先ず第一着手として原料の真綿を売り込み、其の間に於て紬織出し上の調査を遂ぐることゝして、帰国後信州真綿を大島まで持ち行きたる處、先方嶋人は何れも貧乏にして現金を支払ひ真綿を買ふこと能はず、依って真綿を貸し置きて紬織り上げの後、代金を受取る約束にて真綿を貸附けたるに、一定の住所も殆どなき程気楽