ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
嶺の麓に向って出発せしめたり。明治二十二年、氏は正に二十一才なりき。三才山の林檎園は如何なりし乎読書生より一転して園芸家となりたる氏は、時の西内村長斉藤氏の尽力に依って事業上の便宜を得、三才山の麓の原野十町歩の開墾を始め、土地を拓くに随って林檎の木四千本を植附けたり。少壮気鋭の園芸主人は、雇人五人と共に林檎園の中に小屋を構へ、夙に起き夜中に寝て専心事業に従ひたるが、「一本の木から一円宛取れても四千円の収入だ」とは氏の常に夢みし所なりしと言へり。然れども木の存分に成長し、花の美事に咲きたるに似ず、結実は至って不結果にして、四千円の収入は全く長夜の夢に帰し、氏が五年間に投じたる労働賃金約千円と資本金千円とは、只一挺の開墾鍬を記念として遣せるのみにて、跡形もなく消へ失せたり。乃ち氏が丹精を盡して栽培せる四千本の林檎の木は、五年目に至るや綿虫のために害せられて枯れ、其の後野火のため焼盡せられたりしなり。斯くの如くにして始めての事業に失敗せる園芸主人は、記念の鍬一挺を肩にして帰宅したるに、三岡に於ける林檎事業も亦三才山の麓に於けるものと同一の運命に陥り、木に成長し花は開きても、実は思ふやうに結ず、結りても保たずして墜落するとと言ふ風にて、全く望みなきことゝ決定る時なりき。林檎にて失敗せる父子の真の後は如何なりよ園芸を断念せし乎、否。林檎に失敗せる氏の父は再び『舶来蔬菜果樹栽培便覧』を読みて、洋桃栽培に転ぜんとするの意を起(三)