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概要

塩川伊一郎評伝

に英語や地理などを必死で勉強し、日曜には教会へ行って秋風が立つ頃には英会話が身についた。フランシスとの恋も芽生えた。日本を離れる時、再び帰るまいと決心して休みなく勉強した。ヘルプス先生のはからいで、ニューヨーク大学医学部の聴講生になって、解剖学、生理学、病理学を勉強し、ドクター・オブ・デュビュニティ(医学士) を、またニュープリンスウイック神学校からはマスター・オブ・アーツという神学博士をと、二つの称号を得た。勉強に明け暮れて一三年が経った時、勝海舟から「明治政府になって心配ないから帰るように」と言ってきた。明治十五年十月五日、三十八才の熊二は、兄と妻の鐙子と十三才の裕吉に迎えられて横浜港に着いた。日本にも蒸気機関車が走り、煉瓦づくりの建物がたくさんできていた。勝海舟先生は年金三万円の身分で豪邸に住んでいた。西洋文明を早く取り入れるために洋行帰りの者には出世栄達の道が待ちかまえていた。明治政府からも、学校からも勧誘があったが、ヘルプス先生やフランシスの御恩に報いるためにキリスト教の伝道を行うことにした。明治十八年、九段の牛込に明治女学校を開校したが、その一年後コレラによって妻の鐙子がこの世を去ってしまった。范然自失となった熊二は校長を厳本善治に譲り、旧約聖書の翻訳と布教につとめ、共立学校で英語を教えた。その生徒に島崎藤村、三宅克己がいる。軽井沢から小諸にかけて伝道に来た熊二は、先祖の家郷である信州桜井村に思いを馳せた。