ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
二木村能二先生の生いたちとアメリカ留学(武重夏雄『木村熊二』より)木村能二先生は弘化二年(一八四五) 但馬国出石藩仙石家に儒学で仕えていた桜井石門の二男として京都で生まれた人である。九才の時に木村琶山の養子となり木村熊二と改め、養父の死後十九才で幕府の歩兵局に仕え、百俵五人扶持の身分となった。元治元年(一八六四) 幕府御家人、田口耕三の長女鐙子と結婚、征長軍に従い京都取締役となり、勝海舟の手付となって情報収集活動を行っていたが、江戸に戻り下谷に居をかまえた。幕府が倒れ明治の世になると、静岡の草深町に移住したが命が狙われていた。明治三年十二月、グレート・パブリック号で横浜を出帆、サンフランシスコに着いた。森有礼の一行に密かに紛れこんでの出国であった。静岡藩からもらった四百ドルを持って森有礼一行と別れ、蒸気機関車に乗り、広い野原、畑、牧場、砂漠地帯を越えて、十一日間揺られて漸く高層建築の建ち並ぶニューヨークに着いた。マンハッタン島のセントラルパークのベンチで驚きと疲れで茫然自失の時、ミシガン州ハーランド市ホープ大学長、フィリップ・ヘルプス先生との出会いがあった。日本から勉強に来たと言う熊二の真摯の情を認めて、下宿をみつけミシガン市の小学校へ入学できるように取り計ってくれた。子供達と一緒