ブックタイトル塩川伊一郎評伝
- ページ
- 155/332
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている155ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている155ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
塩川伊一郎評伝
明治十年になってりンゴの加工を研究、(勧農局) 内藤新宿試験所でジャムの試作、一般に売りだした。これが日本におけるジャムの起源といわれている。明治二十年には長野県北佐久郡三岡村の塩川伊一郎、二十四年に長野市の初代雨宮伝吉がアンズジャム、二十八年に大阪でアメリカ帰りの東条豊作がジャムを製造した。と記されている。しかし、これら資料は、いずれも二次(間接)資料であり、真偽については直接確認できないが、以下のように推測できる。前記『ジャムのはなし』、『ジャムの知識』、『明治屋一○ ○ 年史』の三資料によると、明治二十年にすでに苺ジャムおよび水蜜桃の缶詰事業が行なわれたことになる。しかし、一三岡村に桃が導入されたのが明治二十九年であり、また木村熊二から缶詰会社の助言をもらったのが、明治三十四年であることから明らかな矛盾が生じる。また明治十四年には、初代伊一郎は正しくは一三十四歳で、年代にかなりの混乱が見られる。したがってこれら一三資料は年代に関して十年以上の誤りがあると考えられ、記述の根拠となった資料の出典が明示されていないために、何にもとついたものなのかハッキリしないのが残念であると言える。一方、『味百年』には、明治二十年にジャムを製造とはあるが、桃、缶詰の言葉はない。またジャム自体は製造が簡単であり、保存食であるために、当時としては高価な缶詰を必ずしも必要としなかったの