ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
三佐久における果樹栽培の記録明治政府の勧業寮は殖産振興のために桃・りんご・ナシヽブドーなどの果樹苗を各県に配布した。長野県ではそれらの苗を県庁(現・信大教育学部)の庭に仮植して、各村々の農家に植えるように奨励した。長野の近くにある真島村の人がこの中からリンゴの苗をもらって植えたのが、善光寺りんごのはじまりだと言われている。佐久市権現堂の小林正一家には、明治九年一月十四日付の県庁から出された文書が残されている。その内容は「リンゴ・ナシ・モモ・ブド― など十二種、三百四十六本のアメリカ産の苗を管内有志にくれるので、試し植えをする人は勧業職まで申し出るように」との通達である。この通達は、横和村、今井村、下中込村、一三河田村、根々井村へ回状としてまわされていたものであるが、果樹苗をもらいに行って植えたという記録はない。果樹を植えた確かな記録としては、明治二十二年に志賀村の神津邦太郎が、神津牧場内へりんご・桃・ブドーなどを五本ずつ植えたという報告書を北佐久郡勧業委員池田静作あてに提出している。しかしこれは植えた場所が群馬県下仁田側であって佐久地域ではない。また成功したという記録もない。