ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

塩川伊一郎評伝

明治二十九年三月一三日森山村へ出張演説会を開く塩川伊一郎方にて蕎麦之饗応あり夕帰宅微齢ありここに出てくる栄一郎とは伊一郎のことで、自分の名前を言った時の「い」がはっきりしていなかったために、熊二には「え」と聞こえて日記には栄一郎と書かれたと考えていいのではないかと思う。この記録からみると、塩川伊一郎が熊二と会ったのは、明治二十八年であり、『長野県果樹発達史』のように「明治二十三年、木村熊二の指導を受け、塩川貞五郎、塩川伊一郎らによって栽培がはじめられ… 」ということはなく、明治二十八年九月二十日以後に、伊一郎らが熊二の指導を受けながら二十九年に本格的な洋桃栽培が始まったとみるのが妥当であろう。明治二十九年三月三日の「森山村へ出張演説会を聞く」の内容が「森山村桃樹栽培の経緯について」にあることは第一部で原文を引用してくわしく述べたが、この書が木村熊二のものであることは小諸市本町の武重夏雄氏によって筆蹟を確めていただいた。この中で熊二は「これぞ森山へ桃樹栽培の初期なりき其の後伊一郎君外七名の有志者は萬難を凌ぎ千苦を嘗めたる結果… … 終に今日の大成を看るに至りたると信ずるなり… … 」と書いている。明治二十九年以前に森山で桃が栽培されていたとするならば、五年もの長い間、果樹に関心の深い熊二の目にとまらないはずはないし、村内の八人の同志者と呼ばれた人々が知らないはずがないと考えるからである。