ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
一町歩をひらき有志にもこれを奨励し、三十年に武州安行地方から良種を求め:・… 」とあり、そのほか新聞などで報道されている内容はーと2を参考にして書かれており、佐久における洋桃の導入が、いつ誰によってどのように導入されたかについて明らかではなかった。私は長い教員生活の中で、子どもたちが生まれ育った郷土、佐久の歴史と風土に対する知識を、より確かな資料に基いて正しいく認識させようと努力を続けてきた。小諸市では一○ 年にわたって勤務し、その間『私たちの小諸市』をはじめ子どもたちの学習資料や地図を市内の先生方と協力して作成し、学習に役立ててきた。小諸市の産業史の中で明治以後の工業部門では製糸業、農業部門では洋桃栽培が重要な位置を占めており、丸万製糸の高橋平四郎の業績については正しく伝えられているが、桃栽培については諸説がバラバラであり、子どもたちにどのように教えたらいいのか悩んでいた。平成二年のある日、東京女子大学比較文化研究所所蔵の木村熊一一による筆書の「森山村桃栽培の経緯について」の文書を見て、読んでいくうちに一三岡村での桃栽培の発端となった日の様子が、ありありと書かれているのに驚かされた。早速『木村熊二日記H』に記されている塩川伊一郎関係の記録とつき合わせていくうちに、森山における桃樹栽培の発生がはっきりと浮かんできた。と同時に前記した諸説について、疑問を持たざるを得なくなった。そこで『木村熊二日記H』と「森山村桃樹栽培の経緯について」を中心に、明治中期における佐久地方の桃栽培の起源を論証してみたい。