ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
の生産は県単位で統合され、十四年には価格統制令と総動員物資使用令がつぎつぎと公布された。そしてこの年の十二月には工場事業使用収用令によって、工場は自由な経営ができなくなってしまった。輸入にたよっていた砂糖は品不足がはげしく、缶詰やジャムの製造は大きな制限を受けることになった。塩川缶詰合名会社は発足の時に砂糖に苦しめられたが、再び砂糖不足によって缶詰製造ができなくなってしまった。長野県では、国の方針である経済統制令により、各地の缶詰工場を統合して篠ノ井に長野缶詰会社をつくった。機械を持ちよって缶詰製造を続けることになったのである。塩川缶詰からはヽ伊一郎の一三男、伊三郎が重役の一人として参加することになったが、伊一三郎は東京帝国大学在学中であった。第二次世界大戦では、次男の昇(一三代目伊一郎)、三男伊三郎、四男勉の三人共出征し、次男昇はフィリッピンで戦死した。三岡工場は閉鎖され、工場で働いていた人々は食糧増産に従事することになって、桃の樹は切りたおされヽ芋や麦がつくられた。桃畑は少なくなくなったが、甘い桃の味は砂糖のなくなった戦時中の食糧難の中で、かけがえのない甘味として人々の体と心をうるおし続けた。