ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
五すゐの努力と戦争の中で桃の収穫と缶詰づくりが一段落した十月十日、二代目伊一郎の葬儀がしめやかに取りおこなわれた。長男の栄一は早稲田大学二年の時に亡くなってすでになく、次男の昇は十七才の学生であったが、三代目伊一郎を襲名することになった。桃づくりや缶詰工場の経営は二代目伊一郎の夫人であったすゐが支えることになった。すゐは小県郡和の出沢薫則の妹で、明治三十二年四月に勝太のもとへ嫁入りした。勝太が台湾・大島旅行から帰って一か月ほど後のことであった。すゐは女性としては大柄でがっちりした体格の人で、夫と共によく働いた。長女ゆきの出産から四男六女を育て、末っ子の歌子がまだ三才の時に夫の死に会うことになってしまった。「桃の核ぬきや皮むきの忙しい時には、職人たちの間に入って包丁を使いながら作業場仝体に目をくばりながら指揮に当っていました。母がいるだけで職場の人々がてきぱきと働いた。桃の数量や缶の入った箱についての計算は暗算でしたが、答を出すのが早くまちがいはありませんでした。手伝いに来てくれた子どもたちが仕事にあきてくると『またきてね』と言いながら、自家製の金札を与え、頭をやさしくなぜて帰していました」と歌子さんは母を想い出しながら語っていた。