ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
略) 何レモ大事業ヲ企劃シタルガ就中沿海州ニ関スルモノハ国家的営利ノ事業ニシテ巨万ノ出資ヲ惜シマザリシモ、正ニ成ラントスルニ当リ不幸君ノ健康勝レズ、其ノ後再ピ機熟スルヤ西比利亜撤兵ノ悲運ニ向ヒ、爲メニ宝ノ山ニ入リナガラ宝ヲ得ルニ至ラサリシバ今尚心残リナラン如斯各大事業成ラズ半途ニシテ今夏遂ニ白玉楼中ノ人トナラレシハ惜ム可シ本日茲ニ儀礼ヲ挙ケラルゝニ当リ、君ヨ霊アラバ余ノ棒ゲマツル一抹ノ香ト共ニ享ケヨ」(全文は資料篇十五を参照)と悲しみ惜しみながら別れのことばをおくっているが、この弔辞に二代目伊一郎の業績が短い文によく記されている。小宮山荘助もまた、明治初期に小諸の与良町の鍛冶職から身をおこし、新しい技術を取り入れながら機械化を進め、南町に新工場を建設して佐久の農業や工業の発展を支える機械をつくってきた人物である。伊一郎の考案した農具や缶詰製造器具を共に研究製作した人であった。二人は世の中に対する考えもよく似ていたため、伊一郎との親交が深かった。小宮山家の人々は今も小諸市一三岡の南部にある和田工業団地で、自動車のエンジン部品など各種工業製品の製造と研究に取り組んでいる。