ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
会社で作って送ってくれるようになり、みんなよろこんでいました。「七転び八起き」とか、広い広い桃畑にたくさんの桃はなったが、全部虫になり、一つも虫がつかぬ桃はなかったこともありました。新しいことをするということはほんとうに並大抵のことではないと子ども心にも思ったものでした。私が長年耳をわずらい、父は「東京の大学病院につれて行く」と言ったのに、行かなかったそうです。今になって後悔しています。これは姉に聞いた話ですが、商売上、電報ヽ電話はみな小諸迄行かねばなりませんでした。エビス講にはサンマを買ってきてくれたのが一番のたのしみでした。父は、ふみ姉が女学校のころからなかなかしっかり者で、東京へ行っては目のつけ所がちがうと何やら非常に期待しておりました。やはりお目がねにかない、実践女子大学の教授となり、もう半年で定年というところで、階しくも他界してしまいました。鳴尾のジャム製造もはじめは業者が少なかったんですが、だんだん増えて最後の方では一四、五社にもなり、ジャム屋ができて競争になってたいへんのようでした。鳴尾村へは私も何回か行ったことがあります。はじめのうちはイチゴは森山でつくっておりましたが、小さいが赤い色がよく、評判は良かったようでした。六月いっぱいはイチゴの収穫をしていましたが、もっと早い時期にイチゴがつくれないものかと、父はあちこちの土地で試してみていたようです。そのころ阪神地方でイチゴづくりがさかんになってきたのに注目して鳴尾へ行ったようです。若