ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
五日、伊一郎は長野日赤病院で五十七年にわたる生涯を閉じたのであった。二代目伊一郎(勝太) の最後の年と人柄については、今も上田市に健在の、三女のみさをさんに語っていただくことにする。父が亡くなったのは私が二十才の時でした。その前年の暮からずっと胃が悪く、小諸の医院でみてもらっておりましたが、「お医者さんは神経から来ている」と言うので、具合の悪いのをおして大阪鳴尾へ出発いたしました。鳴尾ではイチゴジャムを製造しておりましたので、大勢の職人をつれて行きましたが、工場へは殆ど出られないほど体が弱っておりました。私がつきそって世話をしましたが「お前がついてきてくれてよかった」とよろこんでくれました。宿から大阪の病院へ人力車で行って診察してもらいましたが、良くなりませんでした。父は非常にがまん強い人でした。「俺が大阪へ行ったのは戦場へ行って死んだも同じだ」と言っておりました。家でも六月のイチゴジャム製造を控えて心配しておりましたが、いよいよ体の調子が悪くなりましたので家に帰りました。小諸の樋口医院に入院いたしましたが、博士は首を横にふるばかりでした。七月下旬、長野の日赤病院へ入院し、手厚い看護をいただきましたが、八月五日に亡くなりました。