ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
正八年ころ、東京の日本ジャムが大阪出張所を開設し、鳴尾でイチゴジャム(丸缶) の製造を開始した。大正十年ころはまだイチゴジャムの生産量は少なく、日本ジャムが小西儀八商店に二〇〇函売ったのが大口契約として業界の話題になったが、その後漸次生産量が増加して、十三年頃には京阪神地区全部で四千函(当時は六ダース入り) 以L となった。大正十一三年には伊一郎が、祭原商店から二千函の大量注文を取ったことから、原料イチゴの値が急騰し、業界は大さわぎとなった。これを発端に原料の買いつけ競争は激化の一途をたどり、伊一郎が積極的な現金買いに出たため、他の商店からその対策を要望する声が強くなって、大正十四年に最初の価格協定が行われることになった。この年、鳴尾を中心にイチゴジャム、イチゴボイルの業者、中山兄弟会二代目伊一郎の墓社ヽ小出保一郎、熊本商店、塩川合名会社、石橋哲一鳴尾ジャムの六社でジャム協議会を結成して、一製造期間中に数回にわたって価格協定を行なった。(「ジャム界今昔物語」「ジャムのはなし』)こうした経営上のむずかしい状況の中にあって、伊一郎がいないとみるや、他社がどのような行動に出るか心配で、信州にいることができない胸のうちが伊一郎に無理をさせ、体ばかりでなく神経をすりへらすことになったのであろうか。大正十四年八月