ブックタイトル塩川伊一郎評伝
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塩川伊一郎評伝
四最後の鳴尾行き大正十三年の十二月ころから、伊一郎は胃の調子が悪く、食欲のない日があった。それでも仕事は休むことなく、翌年の桃づくりや缶詰工場の準備は着々と進められていた。冬の間も健康がすぐれない日があった。家族や工場の人たちに「みんなでしっかりやるから休んで下さい」と進言されても休んでいられる性格ではなかった。十四年五月、イチゴジャム作りのために鳴尾へ行くと言い出した。「戦場へ出陣するつもり」とまで言ってきかなかった。伊一郎の世話をするために、三女のみさをがつきそって出発した。鳴尾へ着いても工場へは出ることができないほど疲れを感じていたようである。体の調子が悪くなり、歩くこともたいへんなので、人力車をたのんで大阪の病院へ行って診察してもらったが、病状は悪くなる一方であった。伊一郎がこんなに無理をしてまで鳴尾に出かけた背景には、むずかしい事情があった。伊一郎が鳴尾でイチゴジャムを製造して以来、小山清兵衛・小出保一郎など長野県の業者が兵庫県に進出し、主としてイチゴボイルを製造していた。その後六?七年はこれら長野県の業者によって占められていたが、大