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概要

塩川伊一郎評伝

のっていった。磯部駅改修工事、岩村田農学校の建築工事、平原信号所新設工事などであったが、これらは伊一郎の事業欲を満足させてはくれなかった。古びた文書箱の中に一冊の『私営鉱業法』という伊一郎が書き写した複写本が残されている。彼が鉱業法則から探鉱の技術・採掘について勉強していたことがわかる。実はこの本のかげには大きな計画がかくされていたのである。佐久鉄道が小海までまたたく間に建設されたことは前にも述べたが、この一本の鉄道敷設は、人々の眼を南佐久の豊富な材木・石材・鉱物開発へと注がせることになった。今まで荷馬車で、佐久甲州街道を使って運び出していた石材や木材が、鉄道で一気に運搬できるようになったからである。木材は蒸気機関によって丸のこをまわして製材されたが、鉱物資源については、地元の人々に開発の知識と資本がなかった。伊一郎は鉱物の本を求めて勉強すると、探鉱のため、木の葉が落ちた冬に大日向や相木の山々に入った。しかし、一部に鉄鉱床があるものの、大きな鉱脈を発見することはできなかった。時あたかも大正三年の第一次世界大戦への参戦によって、日本は大陸へ進出しヽ大正八年のパリ講和条約によって中国の山東省にあったドイツが持っていた権益を得ることになった。伊一郎の眼も大きく大陸へ向けられる。若き日の台湾開発への夢に再挑戦をすることになった。彼はウラジオストックへ渡った。鉱山開発を目的とした旅であった。しかし彼の目の前に広がっていたのは、果てしなく続く広大な森林であった。鉱脈を発見することは無理であったが、太く長く安い材木は無尽蔵にあった。彼は森林伐採の権利を得て、帰ってきた。船の手配や売る相手をさがしていた大正九年三