ブックタイトル塩川伊一郎評伝
- ページ
- 108/332
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている108ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 塩川伊一郎評伝 の電子ブックに掲載されている108ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
塩川伊一郎評伝
久新聞』大正五・五・三日号)塩川缶詰工場でも、一日は全社員家族全員が集って、観桃会を開き、社員の慰労余興を行なうのが例年のならわしとなった。大正七年には、炭疽病の被害や開花期の冷気が心配された。しかし、弱った樹は植えかえたり、品種の改良を行ない、薬品による消毒の励行によって被害を少なくするようにつとめたため、三年来の大豊作となった。しかし、鉄の値段が急に高くなり、缶詰製造には思わしくない事態となり、生果の販売に伊一郎の生き方を示す褒状関東大震災には2,000個の苺ジャムの缶詰を寄付した力を入れなければならなかった。翌八年には春の天候不順のため、開花が数日早くなったところへ霜がおり、早生桃はほとんど全滅の状態になってしまった。順調に進んでいるかのように見える桃栽培にも苦労の種はつきなかった。大正九年、東京府立第五中学校の生徒が泊りがけで桃園を訪れ、桃畑の草むしり、田の草とり、芋掘りを行なった。伊一郎の友人であった伊藤長七校長が、転地修養隊の活動に農作業を取り入れたのである。伊藤校長は、諏訪郡四賀村出身の進歩的教育者であった。諏訪郡の各小学校の教壇に立ち、小諸小学校で一年間教鞭をとった先生であった。短かい期間であったが、教え子たちから敬慕された。上京して東京高等師範学校に入学、その後、木崎夏期大学や軽井沢夏